🌈「ウクライナの避難者を佐渡保養に招きたいプロジェクト」クラファン(11日目)🌈

「ウクライナの避難者を佐渡保養に招きたいプロジェクト」のクラファンがはじまって11日間がたちました。

クラファン達成までの応援投稿として、3.11からの12年間を、関久雄(NPO法人ライフケア代表)さんの投稿で振り返ります。

関久雄さんは、12年前の3.11の時、原発で避難をしました。

いま、多くのウクライナの方たちは、戦争で避難しています。

戦争と原発

どちらも、誰も望んでいないことに、民草が巻き込まれ、人生が大きく左右されていく。

人間の尊厳がおろそかにされているところが、共通しています。

今日紹介する投稿は、原発が爆発する中、「逃げる、逃げない、逃げられない」という葛藤に巻き込まれた、関久雄さんの記録です。

後半に、レットイットビーの詩も追記してありますので、よろしければお読み下さい。

戦争と原発

ひとごとではなく、いつでもわがことになりうること

だからこそ、助け合い、生きていきたい。

そんな思いがこめられた「ウクライナの避難者を佐渡保養に招きたいプロジェクト」

応援よろしくお願いいたします

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「逃げる、逃げない、逃げられない」 関久雄

●「マスク外していいの?ここは津波が来ないの?」

2011年の原発事故。しかし、中通りに暮らす私たちに避難指示は出ませんでした。“国は私たちを逃がす気はない”と思った私は、すぐに保養を計画しました。1986年のチェルノブイリ原発事故後、世界の各地で保養活動が始まり、日本でも受入れをしたので情報はあったのです。私は8月1日から3週間、佐渡ヶ島で保養を実施。集まったのは県内各地から24人の子ども達。羽茂海岸の「カルトピアセンター」という施設を借りました。到着一番に子どもが言ったのは、「ここは津波が来ないの?」と「マスクを外していいの?」でした。原発事故以来のマスク暮らし。学校の締め切った教室では扇風機が回るだけ。うちの子はマスクの汗で汗もができていました。遠足もプールも、運動会も何もかも無くなりましたが、夏休みに入って佐渡ヶ島に行ったのです。スタッフは私を入れて3人。小6の私の子どももいました。

朝ごはんを食べさせたら海に行き、戻って昼ご飯を作り午後はのんびりします。晩ご飯を作って夜のミーティングをし風呂に入って寝る生活ですが、人手も少なくとにかく大変でした。出かけると毎日、誰かが熱中症になりました。また、参加者の3分の2は親から「行きなさい」と言われて来た子たちで、毎日のようにケンカがあり、中には包丁を振りまわしたり、馴染めなくて途中で帰る子も出ました。

そんな子どもたちに変化が見られたのは1週間が過ぎてからです。宿舎に野球のバットがあって、それを見つけた子ども達が新聞紙を丸めてガムテープを張ってボールを作り、自分たちで野球をやりだしたのです。それを見て私は、「ああ、やっと日常に戻ってきたか」と安堵しました。それまで指示されないと庭で遊ぶとか外に出たりすることは無かったからです。

●「原発ミーティング」

そんな中、8月17日に福島の子ども達が文科省に出かけ、なぜ、自分たちは福島に留め置かれているのかを聞きに行くと言う情報が入りました。そこで私は、子ども達とミーティングを開き、「明日、福島の子ども達が文科省に自分たちの声を届けに行く。だから、きょうは原発事故が起きて困ったこと、辛かったこと、何でも話して欲しいんだ」と言いました。そうしたら、出るわ出るわ。お父さんお母さんが避難を巡ってケンカになる、鼻血が出た、県外に行く時は福島ナンバーの車では行かない等々たくさん出ました。私の息子も、運動会や部活が無くなりイヤだったと話しました。その後、感想を書いてもらいましたが、ある子は「原発ころす」と書いてあり驚きました。でも、何より辛かったのは、あと数日で放射能の濃い福島に帰らなければならないことです。「君たちのお父さん、お母さん、ぼくら大人は君たちを守るからね」と話しましたが、切なくて言葉につまりました。

●「レット・イット・ビー」

福島に帰る日が近づいてきたある日、ボランティアの狩野泰一さん(篠笛奏者)が福島の子ども達のためのライブを近くの廃校の体育館で開いて下さることになりました。カンパを募り渡したいとのこと。そこで、せっかくだから何か一緒にやろうという話になりました。その時子ども達が、「あの曲がいい」と言い出したのがビートルズの「レット・イット・ビー」でした。狩野さんがカルトピアセンターの大広間のピアノで弾き語りをしていたら、集まった子ども達が「それ、いい曲だね、何て言うの?」と聞いたのです。狩野さんが、これはレットイットビーと言うんだよ、どんな大変な時でも、神さまはきっとみんなを守ってくれるという意味なんだと教えてくれました。

そして、当日、会場には50人程の人が集まって下さり、最初は篠笛の演奏。そしていよいよ子ども達の出番。狩野さんの篠笛を先頭に子ども達は「ラッセーラ、ラッセーラ」とねぷたの掛け声で体育館を練り歩き、一人一人が感謝の言葉を述べました。
「毎日、きれいな海で泳げて良かったです」、「佐渡が大好きになりました」。中には「福島に帰りたくありません」と言う子どももいて。そして最後は狩野さんのピアノで「レット・イット・ビー」を歌います。もちろん、子ども達は英語はできないので歌うのはサビの部分。子ども達の「レット・イット・ビー~」。の大合唱に会場で聞いている皆さんが泣きました。私も泣きました。

●保養は車のニュートラル状態にすること

原発事故の被ばくへの考えを巡って、これまでできていた人間関係があちこちで壊れました。本宮の友人は「放射能は気にしない、問題ない」と言いだし、反対運動をやっている私と疎遠になりました。ところが、2012年の正月に電話をくれて、実は石川県に移住を決めた、きっかけは保養に行って色んなことがわかったからだが、関さんだけには言っておきたくて。との話でした。急遽、送別会を開いて別れを惜しんだのですが、こんな例は他にもあります。
2014年、大阪の十三劇場で福島の話をした時、会場に福島からの女性の避難者がいました。彼女は最初、保養は格安の旅行くらいにしか考えていなかったし、被ばくの学習会などは面倒で出なかった。だが、何回も保養にいくうちに色んなことを知り、最終的には移住を決めたと話されたのです。

保養は一見、ちょっとした旅行のようですが、一旦、放射能とか気にしなくていい環境に身を置き、いろんな暮らし方、生き方を見聞きすれば、次の生き方の選択ができるきっかけになります。身体を休め色んな可能性が開ける出会いの場が保養です。逃がされない、いろんな考えで対立や分断が生まれる時は、定期的に外にでること、他を見ること、心身をニュートラルの状態にしバックも前進もできるようにする、その方法として保養が必要です。
次回はそんな保養を否定する動きが出てくるようになったできごとについて書きます。(つづく)
写真は夏保養でのボート体験、ミーティングの様子、細川牧場で死んだロバ。

関久雄・池田雅之

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Let it be

And when the night is cloudy
雲で覆われた夜空でも

There is still a light that shines on me
僕を照らしてくれる灯りはまだある

Shine on until tomorrow
明日まで照らしている光が

“Let it be”
「流れに身を任せて」

I wake up to the sound of music
漂う音色に目を覚ますと

Mother Mary comes to me
母、メアリーが僕のもとに現れて

Speaking words of wisdom
救いの言葉を言ってくれる

“Let it be”
「構わず放っておきなさい」と

 

“Let it be”
「なすがままに」

“Let it be”
「流れに身を任せて」

“Let it be”
「なるようになるから」

“Let it be”
「放っておきなさい」

Yeah, there will be an answer
そう、答えはある

“Let it be”
「なすがままに」

 

“Let it be”
「なすがままに」

“Let it be”
「流れに身を任せて」

“Let it be”
「なるようになるから」

“Let it be”
「放っておきなさい」

Whisper words of wisdom
心でそっと唱えなさい

“Let it be”
「なるようになる」と..

 

<クラファン目標金額20万円>
一人当たり4万円(東京からの旅費、船代、へっついの家の利用料、食事代、移動費用)×5人=20万円

<クラファン期間>
令和6年7月9日~8月18日

<クラファン振込先>
ゆうちょ銀行
記号18240-2
番号16388581
名前トクヒ)ライフケア

<問合せ先>
関 久雄 080-5227-2110

🌈ウクライナの避難者を佐渡保養に招きたい🌈クラウドファンディングのお願い

NPO法人ライフケアホームページ
https://npo-lifecare.org/

#ウクライナの避難者を佐渡保養に招きたいプロジェクト
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池田 雅之
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